夢の世界線の中心でくずおれた物語 ~ハルカメラ廃墟~ camerahal.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

管理人クレハルルが管理運営をしているブログです。


by クレハル

<   2015年 10月 ( 5 )   > この月の画像一覧


単焦点の魅力


少し拝借して撮ったものですが、やっぱりこのレンズはいい。
50mmの単焦点はとりあえずf/1.8で我慢して、こっちに転んでしまいそう。。
ぽちゃり。
e0351574_23501074.jpg
EF85mm f/1.2LⅡUSM
ISO100 1/125秒 f/1.2

e0351574_23575625.jpg
e0351574_23580654.jpg
e0351574_23581627.jpg
e0351574_23582819.jpg
e0351574_23585318.jpg
e0351574_23585745.jpg
e0351574_23591113.jpg
e0351574_23591582.jpg
e0351574_23592882.jpg
e0351574_23593151.jpg



[PR]
by greenhal2015 | 2015-10-29 23:53 | 撮影記

by greenhal2015 | 2015-10-29 23:19 | ゲーム・アニメ

掟上今日子の備忘録を観ていてふと思った。設定ではなく、自分にはある特殊な能力があることに気づいた。

それはかなり事細かに誰が何を言ったのかを覚えていると言うことだ。それはほぼ物心つく頃までにさかのぼることができる。
会議などをやっても議事録を作る必要がないほどに覚えている。かといって暗記が強いという感覚とは違う。
もちろん忘れてしまったことは、覚えていないという認識が自己の閉回路内のみでは不可能であるという点に於いては、
本当に全てを覚えているという分けではないと思うが、それにしても状況記憶に言葉の記憶が強くともなっている。
この記憶の強化は、ある筋道を通して感情的に納得し、且つ論理的整合性によって整理されている言葉の記憶が
すなわち強く海馬を超えて残っていると推測される。

最近これの弊害に陥りつつある。それはあるちょっとした過去の記憶の糸を辿っていると、そこから芋づる式に
記憶が引き出されてしまい、脳内がオーバーフロー気味になるということだ。
もちろん自制することはできる。それは今というリアルに集中することで、その回路を遮断するという方法だ。
そこで考えた。全ての記憶が同時にフラッシュバックしてきたらどうなるのかと恐怖する。
まるでセフィロトの樹のように体系化された全体の散逸構造が焼き付くようにせまるイメージ。
少しドキドキして、自制せずに耽溺しようとも思うが、吾が脳が耐えられそうにもない。

この記憶の累積によって、今のこの存在の自我が形成されているというのに、
それをかたくなに拒否していることに矛盾を感じずにはいられない。
とても無意味な気がしてきて、孤独感にさいなまれる。
今にも愛する人に寄り添いたいとも思う。今にも満天の星空を眺めることで忘れたいと思う。
今にも目の前のスマホに集中することで狂気を回避したいと思う。
今にも忘れてしまいたいと思う。ただそのためだけに眠ってしまおうと思う。

忘れることは幸福である。しかし目覚めてもなお私が私でいられることも幸福である。
たくさんの景色を、写真におさめたいと思うことに一抹の疑念がよぎる。
こんなにもたくさんの素晴らしい景色を、写真におさめ、記憶を固定してしまって、
私はその膨大な絵の洪水に耐えられるだろうか。その膨大な絵の集積が私という存在にどのように関わり意味しているというのか。
それがもし無意味なものなのだとしたら。一体この私はどこにいて、何にすがればいいのか。
私が私であることの意味を、写真は教えてくれるのだろうか。
それを探すために、撮り続けることに果たして意味があるのだろうか。

ただ結局、そんなことを言ってしまえば何をしても同じなのだ。
釣りをしようが、山に登ろうが、散歩をしようが。
ではなぜそのような行動を起こすのか。何の為に?そこに山があるからだなどというのはもはや戯れ言。
嗚呼、そうだ。私は唐突に無性に、愛したい。ただそれだけなのだ。
記憶することが愛ではない。記録することも愛ではない。
愛することを記憶し、愛したことを記録する。
私はハードディスクに記録されたデータではなく、さりとてハードディスクに記録することで私が発露するでもなく。
その狭間でゆらぐただの、ただの、ただの。。

flacy


[PR]
by greenhal2015 | 2015-10-17 23:43 | 雑記

写真家H氏との対談録


表参道のスターバックスにて二時間ほど対談しました。

e0351574_23411284.jpg

H「いいところに行けば、いい写真は誰でも撮れるんですよ。」

私「確かにそうですね。ただ自分は素人なので、まずはそういった教科書的な写真も撮ってみたくあります。」

H「それにしても皆が皆、構えすぎている感じがします。そこに最近、温度差を感じるのです。」

私「H氏はプロとして撮られているから、オフでは構えないで撮るスタイルを好むのですね。」

H「そうですね。語弊があるかも知れませんが、うまい写真なんて撮る必要はないんですよ。」

私「それは深いですね。でも少しわかる気がします。主観が入りすぎている写真は良くも悪くも騒々しさがありますよね。」

H「そうなんです、そこまで自分を出したいかな?といった感じです。」

私「それは客観的な写真の目線も必要だということでしょうか。」

H「ええ、あとはじめから写真を撮ろうとして、目的地に行くという感覚がわかりませんね。」

私「それはすこし胸が痛みます。最近は色々と車で走り回って撮っていましたから。
  ただ何度も言うようですが、まずはそういったお約束の写真が撮りたいんですよね。
  それを撮った後で初めて、自分なりの視点へとステージが進められるというか。。」

H「なるほど、そういう感覚もあるんですね。」

私「そうなんですよ。ただ確かにもういい写真というのはネットで溢れかえってますからね。
  まずどこかへ行こうとして、ネットで調べるとそういう写真がすでにたくさんあって、、
  ただそれを追いかけて、まるで追体験するように撮りに行っているだけのような虚しさも感じます。」

H「そうなんですよ。だからそれをぼくは確認しにいくだけって思ってます。」

私「それでもそういう観光地で、自分なりの何かを見つけることができるかもという希望もあるんです。」

H「それはあるかもしれませんが、写真なんてどこでも撮れるんですよね」

私「ええ、確かに!ですから自分の理想としてはですね、どこだかわからない場所にいつの間にか着ていて
  たまたま通りすがった光景を写真におさめるという方が、どきどきしますね、冒険って感じです。」

H「非常によくわかります。無目的的という感覚です。」

私「(僭越ながらこの人とは非常に考えが合っているような気がしてきました。)」

e0351574_23413767.jpg

H「いずれにしても批判するわけではなく、構えすぎるのは疲れますから、もっと気軽に撮ってみたいところです。」

私「そうですね。撮るという作業がすでに構えているわけで、まずは感動したいというか
 まずは感動しないとという強迫観念になってしまっても本末転倒ですけど、
 最初はカメラを構えないでいようと最近では意識してます。」

H「ほほう」

私「そうすると、まず本当に感動するんですよね。レンズ越しではない生の感動です。
 そこで初めて、あ、撮りたい!という情熱が発動して、カメラを構えるという流れになるように。」

H「それはいいと思います。それくらいがいいです。」

私「まず私が感動しないと、つまるところ私の人生に関連性がないような気さえするんですよ。」

H「うーん、なんとなくはわかる気がしますが。。」

私「ネットで、なぜ写真を撮るのかっていう掲示板でこんなことが書かれていたんです。
 写真は自分の人生に関わるものじゃないと意味がない、どこかの綺麗な星空を撮ったとしても
 それは結局、自分の人生には関係ないのだから、そこら辺の石ころを撮っているに等しい、といったような。」

H「いやー、それは違うと思いますよ。そういう考え方もあるかも知れませんがね。」

私「そうですかね、確かに写真というかカメラに引っ張られる感じでもいいのかなと
 最近は思うようになりました。カメラ自体が私の人生に既に関わってきているみたいな。」

H「うんうん、そういう方が自然かも知れませんね。」

私「そういえば先ほどの、確認しにいくというのも、ロケ地巡り的な感覚なら楽しめるかなとも思ってます。」

H「そういう意味での目的というか、ある程度のしばりがあってもいいですね。
 私はあえて多くのレンズを持って行かず、本数を絞ることが多いです。
 そうしないと、どんな写真を撮りたいのかがわからなくなってしまうからです。」

私「レンズしばりで、方向性を決めていくのですね。」

H「そう考えると、本当の意味での無目的というのは難しいですね。」

私「確かに、ただそういう無目的という方向は、お散歩カメラ的でゆるくて好いですね。」

H「話は戻りますが、うまい写真なんて撮る必要はない。」

私「少しわかります。好い写真と良い写真も違うし、上手いと巧いも違いますね。
  H氏は巧い写真は仕事がら撮りすぎてますから、上手い写真、好い写真に惹かれるのでしょうか。」

H「同じ、いい写真、でも大きく二種類ありますね。」

私「最近、思うんです。結局、自分が満足できればいいやって、あとで見かえしてああ撮って良かったって思えればいいんだって。」

H「記憶に残る写真か、記録に残る写真か、あとで頭の中でイメージできる写真が好い写真だと思います。」

私「自分もそう思います。記録に残る写真というのも惹かれます。
 たとえばこの街並みとか、撮るじゃないですか、どうでもいいと思っていた光景ほど、あとで見かえしたとき、おおーって思ったり。」

H「そうなんですよ。電話ボックスとか、何気ない光景の方があとあと貴重になる。
 こんなのがあったのかって思うような。大体、五十年で写真の価値ってあがってます。」

私「そうなんですね。撮ろうとして撮った写真って、結構、当たり前というか、すごくメジャーなもので、
 なんとなくシャッター押しちゃった写真の方が、あとで自分でなんで撮ったかわからないから意表をつかれる感じですよね。」

H「ええ、たまたま写っちゃった看板とかに、価値がでてきたりしますよ。」

私「写真ってそういう意味ですごいです。今そこの街並みを撮ったとするじゃないですか、
 するとその途端その写真はどんどん古くなって、いつの間にかそういう記録的な価値が上がり続けるっていうか。」

H「何でもない光景でもあとで価値が出る。記録に残る写真というやつです。」

e0351574_23412215.jpg

閑話休題

とても内容の濃い話を延々としてましたので、今日はここまで。
もちろん記憶を頼りに文章をおこしているので、一部、脚色は含みますが、大きな虚構はありません。

[PR]
by greenhal2015 | 2015-10-13 23:43 | 雑記

ふたつの光


ふたつの光は 同じ方向へ向かい 今日ひとつになる

数限りなきレンズの屈曲の果てに 収束する点へと結実する

ふたつの光は わたしにとってとても大切なものであり

このふたつの光を通して 世界をより立体的に視ることができる

その光をこれからも観測できることが わたしの希望であり 理想の波動だ

観測者であり続けることができること こんな関係を選択できたこと そんなことは滅多にない

過去は光に満ちて 未来も光に満ちることが もはや決定されているのだから

闇さえも 光を演出するための スパイスに過ぎない

遠い世界の果てにいる わたしがそう確信する

歪な多角形でさえも ふたつの二次元により適正な解へと導かれるだろう

問2:ふたつの光が アトラクタフィールドに与える 世界線の数値変動を証明せよ

※そのときリーディングシュタイナーの発動は無視してよい

それは必然であると 確信できる プールの水

それはスカイツリーの川を流れる 青きともしび

それは花咲き誇る とある公園

それは夜のとばりに佇む 工場の海

それは幾ばくかの 滝たちの叫び

それは紅葉に ドキドキと心躍る 小道

それはまだ視ぬ 雲海に泳ぐ名もなき建物

それは満天の星空に ねころがる赤道儀の冒険

それはふたつの光が ひとつの宝物になる日

故に 変動した数値は計測閾値を超えて

わたしはとんでもなく大きなものを 手に入れてしまう

ふたつの光よ わたしの宝物になってくれて有り難う

だからきっと 輝かしい それはまるで

宝石箱を開けるような 人生を 希います


「ある二人の親友に捧げるこの日の朝の詩」


[PR]
by greenhal2015 | 2015-10-12 07:35 | 写真詩